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ワンちゃん物語 7 クロ・シロ編 前編


2015年 11月 15日です。 ワンちゃん物語のパート2の話です。

今から20数年前の話です。

 

当時、30代の私は公私ともに煮詰まっていました。

そんな私を支えてくれたのが 親友の森永さんでした。1991年   6月3日 に 長崎県の

普賢岳が爆発し何人もの犠牲者が出ました。その時、そこに取り残された

ワンちゃんたちがいました。森永さんはその不遇にあった犬を引取りに行って飼う事

にしました。 このワンちゃん物語⒈の井上君と同じケースですね。

大きい黒い犬をクロ、小さな白い犬をシロと名付けて家で飼っていました。

クロは雑種の大きな犬でしたが、庭でも家の中でも飼っていました。

お風呂も一緒に入っていたそうです。

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森永さんの家に泊まりに行った時の事です。

寒い冬の日の事でした。敷布団に横になり、掛布団を開けるやいなや、クロが

その布団に飛び込んできました。森永さんが笑いながら言いました。

我が家では犬と一緒に寝てるんだよ、、と。

犬好きな私でも一緒に寝た事はありません。

でも、とても楽しそうなので一緒に寝る事にしました。

とてもクロは温たたくて、湯たんぽの様でした。動物なので毛がたくさん自分に

付きましたが、気にはなりませんでした。

むしろ、荒れていた自分の心がクロのおかげで癒されていくのを感じていました。

「 暖かい季節になったら、クロやシロと一緒にキャンプに行こう」と、

森永さんが誘ってくれました。

翌年の春、森永さんとクロ、シロと共に行ったキャンプでの体験が私を幸運に

導いてくれるのです。

その体験は明日書きますね。

ワンちゃん物語 6


2015年 11月14日です。 ワンちゃん物語その6です。

このシリーズを掲載しながらハチの写真を探していましたら、学生時代に学生証

に挟んでいたハチの写真が出て参りました。当時から少しピントが合っていない

白黒写真ですが載せてみます。

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昨年、父の妹、つまり叔母が病に伏しました。そしてその荷物の整理を従姉妹が

したところ、その叔母の母、私にとって祖母であり、ヨシダの2代目の妻である

熊千代祖母の遺品が数多く運ばれて参りました。

その整理をしていますと中から祖母が大学ノートに書いた 「 折にふれて」と題され

た日記が出て参りました。

それをパラパラとめくっていましたら、何と綺麗に切り抜かれた文章が出てまいり

ました。それが大学サークルの機関紙 「 みちしるべ」に掲載された私の文章、

つまり「 愛犬の死」の 投稿文でした。

祖母の感想として

「 何と この孫は優しい感性を持っているのだろうか、祖母として嬉しい 」と

記されていました。

まさか、当時80歳を過ぎていた祖母が当時ハタチそこそこの私の文章をこの様に大切

に切り取って日記に貼っているとは夢にも思わなかった私は胸が詰まりました。

 

そして、読み進んでいくうちに娘である父の妹に対する心温まる思いやりの

文章も綴られておりました。

早速、読みやすくタイプに打って従姉妹に送りました。

従姉妹は死期が近づいてきた89歳になる母親の病床で聞かせたそうです。

叔母は病床でうなづきながら聞いていたそうです。

その叔母はそれから3ヶ月後、亡くなりました。しかし、母親の愛情あふれる日記に

ふれて幸せだったのではないかと思います。

 

私も孫の私に対する45年もの前の祖母の日記にふれて幸せでした。病弱で入退院を

繰り返していた祖母でしたが、ハチが迷い込んできた小学校1年生の夏に

初めて和歌と俳句を教えてくれたのが祖母でした。

 

今回の井上君が連れて来たワンという犬はハチに似ていました。

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そして思い出した様にハチの事を綴って参りましたが、このブログを書きながら

何かハチが何十年もの間、吉田家の忠犬として色んな事を思い出させてくれたような

気がします。

ワンちゃん物語は一旦終えますが、明日からは私に勇気を与えて運まではこんで

くれた別のワンちゃん物語を書いてみます。

ワンちゃん物語 5


2015年 11月13日です。 このワンちゃん物語1の井上君から電話がありました。

楽しく今回のブログ記事を読んでると共に まだヤメは出産していないとの事でした。

 

高校1年のときにハチの死があって1年後、私の祖父、ヨシダの2代目が78歳で他界

しました。初めての近親者の死は私にとって衝撃でしたが、その死を受け入れられた

のは前年にハチとの別れがあったからかもしれません。

最近読んだある本に

「 もし、男の子がいたら犬を飼ってあげたら良い。最高の友人になるだろうし、

犬の寿命は大体15年だから最も多感な時期に死ぬ場合が多いから命の大切さを

子供に教えてくれるだろう」

と、書かれてありましたが、本当にそうかも知れません。

 

大学生になった私は博多での下宿生活を堪能していました。

学生証にはハチの写真を入れていつも持ち歩いていました。

大学のサークルはユースホステル同好会でしたが、このサークルは年に一度、

当時としては立派な機関紙を発行していました。

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私はこの編集に携わっていました。

一年生の時にこの機関紙に原稿を掲載する事になり、私は 「 愛犬の死 」と題して

ハチの物語を今回の様に書きました。

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結びは

「 あの日、父が言った言葉は本当は暖かい思いやりだったのかも知れない。

いつの日か僕が父親になった時出来ることならば子供に犬を飼わせてやりたいと

思う。そしてその犬の死に際した時に僕は父と同じ言葉をはき、子は僕と同じ事を

いうであろう。その時の僕の態度は・・・・と思いながらふと手にしたハチの首輪

から あの懐かしいハチのにおいと僕の少年時代のにおいがした。」

とのラストの言葉でした。

 

私にとってこの機関紙にハチの死を投稿した頃から何となくハチは遠い思い出の

中に封印されて忘れかけていました。

 

そして45年近く過ぎ去った昨年、私はこの大学時代の 「 愛犬の死 」の文章に再び

接する事になるのですが、それは機関紙ではなくて何と、思いもよらない意外な

ところだったのです。それはまた明日書きますね。

ワンちゃん物語 4


2015年 11月12日です。 店の外装工事も2/3すみました。

 

こうした大きな店の改装は今回は17年ぶりですが、50年前も大きな改装を

した時期があります。それは私が高校時代の頃です。店の裏庭まで店を拡張する

事になりました。それは愛犬ハチの居場所が少なくなる事でもありました。

店の工事中、ハチは床下に潜って仲々出て来ませんでした。半年後出来上がった

店の裏には庭が無くなり小さな通路があるだけでしたが、そこがハチの居場所でした

。そして老衰のために脚が弱ってきたハチは玄関横の下駄箱の下にうづくまって、

動けなくなってきました。

獣医に診てもらいました。フィラニアという病気でした。父が

「 このままここで静かに死なせてあげよう」と 言いました。

然し、幼かった私は泣いてすがって動物病院への入院を懇願しました。

小学校の時に入院して元気になったハチの姿が忘れられなかったのです。

父は 「 お前がそこまで言うなら、、」と 入院手続きをとってくれました。

動物病院に入院させて帰るとき、ハチは檻の中から、悲しそうな目でクーンと言って

私を見ました。

翌日、学校にいても気が気ではありません。

授業が終えるや否や 動物病院に直行しました。

 

そこにはハチが入っている檻があるはずでした。然しその檻は空でした。

獣医の先生が一言

「 一時、元気になったのですが、、」と、つぶやき、ハチの匂いが染み付いた

首輪を差し出しました。

「 ああ、何て寂しかったろう、  そばに付いてやれば良かった、

父が言うように家で死なせてあげれば良かった」という後悔で胸が張り裂けそうに

なって 泣きながら首輪を持ちながら帰った秋の日を思い出します。

そしてこの愛犬の死が50年も経った昨年、新たに思わぬ出来事として

自分の前に現れるとは知る由もありませんでした。

それは、また明日書きますね。

ワンちゃん物語 3


2015年 11月11日です。 ワンちゃん物語の続きです。

中学生になった私は高校受験勉強を夜していました。

深夜になって眠気覚ましによく散歩に出かけました。

その時に愛犬ハチを伴って出かけたのです。深夜ですから、鎖なしでも

目立ちません。ほとんど人はいないのですから。

そうしてハチとの深夜散歩のある日のこと、門司駅の前に当時は屋台のラーメン屋

さんが3件も営業していました。ラーメンを食べたくなった私はその夜はハチを

連れずに一人で出かけたのです。散歩して、ラーメンを食べて家に戻ると

煌々と明かりが点いています。

家の前には両親が怒った顔で待っていました。

何事かと思っていましたら、散歩に連れていかなかったのでハチがワンワンと

吠え続けて止まず、何と一時間近く吠え続けていたそうです。

その声で一家みんなが起こされたという事でした。

 

門司駅前の屋台のラーメン屋さんは無くなりましたが、今でも戸の上通りに同じ

味の屋台のラーメン屋さんが在ります。聞けば当時の二代目の方だそうです。

時折、そこでラーメンを食べるたびにこの事を思い出してしまいます。

 

そんなエピソードもありましたが私が高校生になる頃にはハチも歳をとり、

死期が近づいてきていたのですが、、、その死にあたり、私には辛い思い出が

あるのです。それはまた、明日書きますね。