2014年 9月16日です。 良い天気ですね。
一昨日、昨日と祖母の随筆の事を書いていましたが、今日はその延長線上での
物語が合ってびっくりしています。というのは祖母の随筆と共に懐かしい写真も
何枚か出て来たのです。その中の一つに50年前の 時の記念日の店頭写真が
ありました。当時の店員さんが 無料時計点検を店頭で行っている写真でした。

Oさんというその店員さんの事をふと思い出していましたら、何とそのOさんが
店に来店されたのです。それも父のご仏前にお参りに来られたのです。
余りの偶然に驚いてしまいました。
数年前に一度、来られたそうですが、その時は私は出張中で逢えず、今日の再会は
実に中学生の時以来、50年ぶりの再会でした。さっそく数年前に退社した専務も
来て頂いて昔話に花が咲きました。

ヨシダにはこうして在籍し、かつ退社された方が何人もおられますが、
こうして80歳にもなられてもお元気で、訪ねて来て下さる事に深く感謝の
思いで一杯の良い連休明けの1日となりました。
ここ1週間ほど、人との絆を感じさせられる日々が続いています。
明日は109回目の(32年連続の)バスハイクの日となりますが、
お客様や社員との絆を深める日にしたいと 改めて思いました。感謝です。
2014年 9月15日です。良い天気ですね。
昨日、ブログに書いた祖母の遺言書に似た随筆の件ですが、吉田家の親族と
電話で話す事が多くなり、再度、文箱を探して見ました。
そうすると新たな発見がありました。 先ずは昭和57年に私が祖母の和歌や俳句を
まとめて本にした 「 折にふれて」が出て参りました。


勿論、これは私が編集した訳ですから自分も持っていて、想定範囲の事だったのです
が、驚いたのは病床日誌の中に
「 25歳の清春さんに教えられた事」と記された文章でした。


大学時代のクラブの雑誌に 「 愛犬の死」と題して投稿した文章が綺麗に
貼り付けられてありました。そして感想の文章が綴られていました。
まさか祖母がこうして大切なノートにスクラップまでしてくれているとは
露知らず、驚きました。と、同時に祖母にも愛されていたのだなあと
実感し、嬉しく思いました。私には兄弟従兄弟が8人おりますが、
その8人とも随時、いろんな箇所に登場し、祖母の愛情を感じる事が出来た
数日間となりました。感謝です。
2014年 9月14日です。良い天気ですね。
2日前、父の母である祖母の遺言書の様な随筆が出て参りました。

父の妹、私にとって叔母の家をリフォームする事になり、その片付けをしている
時に祖母の文箱が出てきたそうで、それを従兄弟が持って来てくれたのです。
昭和51年に祖母が80歳の時に、父をはじめとする子供達に向けた文章で、
原稿用紙に 「 吉田家の一端」と記されて有りました。

達筆な字で書かれてあったので二時間かけてワープロにて書き写して見ました。

そこには吉田家9代目の曽祖父が 吉田時計店を創業した時の話から、
子供達に対する思い、孫の私達に対する願い、そして一族に対する感謝の
言葉が綴られておりました。
単に読むだけでなく、書き写している訳ですから、祖母の一字一字に対する
思いが汲み取れて思わず涙が出て参りました。
晩年は病弱で入院や退院を繰り返していた祖母でしたが、祖父との結婚話の
話や子に対する思いなど、元気な頃の幸せ感を感じる事が出来て孫としても
嬉しい文章でした。
中でも曽祖父の初代が、日露戦争の時のロシアの捕虜に沢山の着物を
差入れした話や、当時の門司中学に青年育成金を始めたというエピソードなど
初めて知る事が多く驚きました。
今年は吉田家のルーツである家系図を新しくしたり、その明治以降の
家系図2巻目を姉が作ったりと吉田家のルーツに縁が深い年の様です。
2014年 2月8日です。朝は雪で山が真っ白でしたね。
明日の北九州マラソン、晴れると良いですね。
ヨシダからも若手の清水君が参加します。
今日はヨシダの歴史のラストです。

何事も 「 過去」「現在」「未来」の3つが大切と思います。
幸いに、現在製作中の門司港店のウインドは3つあるので、過去、現在、未来の3つの案内ができるようにしました。
今回の ヨシダの歴史4 では、来春に迎える創業130周年に向けてPOPを作りました。
そうしてくると頭に色々なアイデアが湧きまして、その確認作業や、未来構築に向けて、今週は随分と行動しました。
その仔細は来週に書きます。
今はとにかく乱反射せずに、門司港店のウインドを作り上げます。
2014年 2月7日です。ここ3日間ほど寒いですね。
このブログ、ヨシダの歴史を書き始めてから、ヨシダのルーツにも興味が湧いて
ルーツ探しの旅に出てきました。それは来週書くとして、、、
今週は門司港店に飾るヨシダの歴史に没頭です。
今回はそのパート3のPOPです。

門司港レトロ編ですが、過疎になりつつあった門司港がレトロ門司として
蘇っていくのを19年にわたって関与してきた自分にとって、感慨深いものがあります。