- 2022年6月20日
- テーマ: 今日のブログ, 思い出話
2022年 6月20日です。
若者たちの映画の続きです。
1974年、大学を卒業し、社会人になり、大阪に修業に
行きました。下記の写真は大阪修行時代の写真です。

そこで新聞の映画欄で神戸にて若者たち3部作の
上映ニュースを知りました。
第一作の「若者たち」は高校時代に
第2作の「若者はゆく」は大学時代に
見ていたのですが、第三作の「若者の旗」は見る機会を
失っていましたので 就業先のお店の休日に大阪から神戸まで
見に行きました。

これで3部作を全て見ることが出来たのですが、ワタシとしては
やはり第一作の「若者たち」が一番印象に残りました。
ビデオもDVDもない時代ですから、どうしても再び見たいと
思いつき28歳の時に再び 若者たちを見るのですが、
それは何と自分が主催しての自主上映となったのでした。
それについては明日、詳しく書きますね。
ちなみに大阪修業時代の1974年には大阪で忘れられない
2本の映画にであいます。
1本は「砂の器」で、もう一本は「仁義なき戦い」でした。
2本ともに映画史に残る名作ですね。
いつかこのことも書きたいと思います。
- 2022年6月19日
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2022年 4月28日です。若者たちの映画の続きです。
憧れの大学生になった頃、実家の手伝い、つまり今のヨシダで
アルバイトをしていました。

当時は店のスタッフも少なかったので自然と手伝う様になって
いったのですが、当時は 職域販売 という外販も行って
いました。郵便局や電話局、各工場などののお昼休みの
食堂の片隅で時計を並べて職員さんに販売するのです。
外販専門の社員がいてそれに姉や私がアシスタントとして
ついて行っていました。
職員さんとしては昼食が終えた後で見ていただき、
お気に入りの時計があれば給与引きで買って下さるのですが、
仲々、売れるものではありません。
そんな中でもポツポツと買って下さるお客様もおられて、
そんな時は本当に嬉しかったです。
「若者たち」の映画でもその職域販売のシーンが有るのですが、
このシーンだけは涙が出て仕方がありません。
DVDで見直すたびに、自分の職域販売の体験と重なって
涙が溢れます。
「また、同じシーンで泣いてる!」と 家内からは
あきれられますが、仕方ないですね。
下記の写真はその職域販売に出かける時の写真です。
私と現在の川本部長、共に22歳の時の写真です。
小さな軽自動車に時計の入ったカバンと、
テーブルまで積んで出かけていました。

先日、トップ保険サービスの野嶋社長と会食した折に
この話になりました。

野嶋社長も若い頃、職域販売で
保険を売っていたそうです。
同じ体験者として話が盛り上がりました。
「その時の体験で、社員にはこんな思いをさせたくない!、、と
努力してお客様の方から契約オファーが来る様に努力して
今日がありますね」と 続けられたお言葉が、私と同じで
これまた共感して話が尽きませんでした。
私も野嶋社長と同じで、
「何とかお客様の方から来て頂ける店にしたい、外販を
しなくても、やっていける店にしたい、、」と、
思っていました。でも当時はお客様が来られる駐車場すら
なくて、現在の駐車場付きの店にするまで25年の年月が
かかるのですが、職域販売を止めたのは25歳の時でした。
話は戻って、、、
そんな思いの深い映画で、大学時代にはその続編「若者がゆく」
も制作されて見に行ったのですが、第三作「若者の旗」は
見る機会に恵まれませんでした。
その第三作を見たのは、、社会人になった時でしたが、、
続きは明日また書きますね。
- 2022年6月18日
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2022年 6月18日です。
昨年、俳優の田中邦衛さんが、そして今年は山本圭さんが
お亡くなりになられてショックです。
と、いうのは、、高校時代に憧れていた俳優さんだったから
です。彼が出演した「若者たち」の映画は私の今までの
生涯を通じてのNO1の作品だったからです。
部屋にも長い間、そのポスターを貼っています。

そう、「君のいく道は 果てしなく遠い、、」のあの音楽の
映画です。
どれくらい私の心に響いたかを4回にわたって書きますね。
大学受験が重くのしかかりつつあった1967年、
高校2年生の時にこの映画を小倉の小さな映画館で
初めて見ました。
当時は映画界は五社協定というのがあって、この映画は
文部省推薦にもかかわらず、自主上映だったからです。
親を亡くした5人の兄弟が本音で意見をぶつけ合って
成長していく映画でとても感銘を受けました。
中でも山本圭さんが演じる三男の大学生、三郎がカッコ良くて
彼が長い髪をかきあげるポーズに魅せられました。
高校時代は当時全員が坊主頭だったので長い髪への憧れも
あったのですね。
恋人役の栗原小巻さんとのやりとりも爽やかで
素晴らしかったです。
高校時代、浪人時代と再放映が映画館であるたびに
通いました。ラストの主題歌が流れるシーンでは超満員の
映画館が大合唱でした。そんなことは今では考えられませんよね。
そんな昭和の良き時代でした。
そしてギターを弾きはじめたのもこの高校2年生で、
特に若者たちはギターコードも難しくなかったので
よく弾いていました。
そして憧れたキャンパスに入ったころ、若者たちの映画の
1シーンと同じ体験をするのですが、
それはまた明日、書きますね。
2022年、6月8日です。時の記念日の話の続きです。
平成6年の6月10日、時の記念日特集で、ヨシダ所蔵の
和時計がテレビで全国放送されました。

全国放送の反響は大きくてその後、この和時計は
「何でも鑑定団」にも出る事になります。
そして始めた「珍しい時計の展示」は「レトロ時計展」
「現代からくり時計展」などと名称は変更しながらも
現在は「時計歴史展」として2019年まで続いていました。
徐々に所蔵の時計も増えてきて、
平成10年には世界に20台しかないという屋内型の大型
からくり時計を入手、他にも水時計、紙時計、サッカー時計、
始め硬球落下式時計、パチンコ時計など本当に珍しい品が
集まりましたが、保存上、メンテナンスが大変な品は
数年に一度の公開にさせて頂いています。

毎年のように近くの幼稚園児さんも見学に来られていましたが、、

コロナ禍が発生した2020年、2021年は三密を
避けるためにお休みして、今年は3年ぶりに開催致します。
6月21日迄、展示致しますので、どうぞ見に来て下さいね。
2022年 5月24日です。一昨日まで門司みなとまつりが
3年ぶりに開催されました。
私は夕刻から栄町商店街での総踊りになる行ってきました。

というのは総踊りでは3曲踊られるのですが、そのうちの2曲、
★ 門司港レトロ音頭
★ 芙美子サンバ
が、私の作詞、友人の吉田和則氏の作曲の歌だからです。
四季のグループの米澤英子先生が20年前に振り付けをして
下さって、総踊りで使って下さっているからです。
門司みなとまつりは昭和9年(1934年)に 出光佐三翁が
門司商工会議所の会頭時代に始めたお祭りで
77年の歴史ある日本三大みなとまつりの一つです。
私の祖父、ヨシダの2代目、吉田藤吉も門司商工会議所のメンバー
でしたからこのお祭りの立ち上げに加わっていた様です。
下記の写真はみなとまつりの戦前の写真です。

下記の写真は三代目の父がみなとまつりに参加した時の写真です。

私が6歳の時の昭和32年の写真です。
当時の私は体が弱く、お祭りは「見るもの」で
「参加出来るもの」ではありませんでした。
それが30代から街づくり活動を始めたり
今では門司の躍進を考える会の代表などで
お祭り関係も主催者側に回ることが出来ているので本当に
「健康第一」ですね。 そして、、、
時代は流れて、、、いろんな方々のご縁が重なって、
2代目の祖父が関わったお祭りの総踊りで私が作詞した歌で
たくさんの人が踊って下さるとは感謝以外には言葉が
ありません。

踊って下さる皆様、
振り付けの米澤英子先生と四季のグループの皆様、
作曲の吉田和則さん、
本当にありがとうございます。